救済教育の営利性
昔私は、ニートと呼ばれる人たち向けの学校を運営する会社を興せないかと考えていた。ニート、と一言でまとめるのは賛成ではないが、とにかく何らかの事情があって学校へ行っていない人たちに営利で教育を施せないかと本気で考えていた。
システムは非営利より営利の方が質が上がると思っていて、福祉的な教育だって儲かればもっと質は上がるはずで、つまり行政の極めて荒い網のようなシステムは、経済観念を持ち込むことで解決すると思っていた。
同時に、営利こその互いの責任感、継続性も発生すると考えた。私はボランティアの質の低さが嫌いだった。遅刻、無断欠席、不十分な準備、幽霊部員のような人、それらは報酬が無いために発生する甘えだ。始めたという事実に伴う社会的責任を理解する人は少ない。彼らは、自らが救われるためにボランティアに参加するからだ。
とにかく私は営利でフリースクールをできないかと本気で考えて色々な人に話した。
しかし反応は良くなかった。会社の役員をやっている親戚は、それはほとんど無理な絵空事だ、と言った。面白いね、という人もいたがそれ以上の事は無かった。
私は考えが誤っていたのだと思い直し、収益事業を持つことで、今度は非営利でフリースクールをできないか、と考えた。
そして先日会社を興した。ゆくゆくは教育系へという想いをこめてSQOOLと名付けた。
まだ始まって2週間だが、会社を運営するようになって考えることがある。
本当に営利のフリースクールは絵空事なのか?周囲が「そこにはビジネスチャンスは無い」と言う事は、実は大きなチャンスなのではないか。大儲けは出来ないけど、競争原理が働くような業界に作り上げていくことは絵空事では無いように思える。
とおぼろげに。私は舞い上がっているのだろうか?